タイタニック・ベルファストで知るこの町の造船の歴史と関わりある人々

タイタニック造船中の写真

北アイルランド最大にして、もっとも人気がある都市「ベルファスト」

町には観光スポットがいくつかありますが、中でも一番有名で毎年多くの観光客が訪れる場所といえば、「タイタニック・ベルファスト」(タイタニック博物館)です。

そして、タイタニックと言えばジェームズ・キャメロン監督・脚本により1997年に公開された大ヒット映画「タイタニック(TITANIC)」が有名です。

 

あらすじ(簡単に)

映画タイタニックのポスター

1912年4月10日に起きたタイタニック沈没事故から84年後の1996年。

トレジャーハンターのブロックにより、沈没したタイタニックから一枚の絵が発見されます。

絵がテレビで紹介されると、ブロックのもとに一本の電話が…。

その電話の主は、発見された絵のモデルとなった女性でした。

ブロックとその女性は会って話すことに。

女性の名前は「ローズ」

ローズは沈没したタイタニックに実際に乗船し、生還した女性でした。

そして、彼女はタイタニックで起きた出来事を語り始めます…

 

画家志望の貧しい青年「ジャック」と、上流階級の令嬢「ローズ」が、豪華客船タイタニックで出会い、互いに惹かれ合い恋をします。

身分のまったく違う二人でしたが、それでも未来を共にすることを誓います。

そんな矢先、不運なことに船は航海途中に氷山に衝突。

浸水し沈み始める船の中、2人は協力し合い無事に船から脱出します。

海の中で2人は船の残骸にしがみつき助けを待ちますが、残骸はローズ1人分の体重を支えるのが精一杯。

そのため凍てつく真夜中の海に長時間浸かっていたジャックの体力は奪われ、帰らぬ人に…。

ローズは笛を鳴らし、必死に自分の居場所を知らせ、なんとか生還します。

その後ローズは、名前を偽り今までの身分を捨て、一から自分の人生をスタートさせることを選ぶのでした。

 

タイタニックの栄光と悲劇、そして身分が全く違う若い2人の儚い恋愛を描いた素晴らしい映画ですが、基本的に二人の恋愛を中心に物語が展開するため映画を見ただけではタイタニックとベルファストの繋がりはもちろん、北アイルランドとの繋がりもほとんど分かりません。

しかし、タイタニックとベルファストそして、アイルランドには深い深い繋がりがあります。

それは、この豪華客船が北アイルランドのベルファストで造船され、その造船に多くのアイルランド人が関わり、この町から完成したタイタニックが始めて海に出たこと。

タイタニックが最後に寄った港は、アイルランドの小さな港町「コーヴ」であること。

ゴールドラッシュに沸く「アメリカ」という新天地を目指し、多くのアイルランド移民が船底の三等船室に乗り込んだことなど。

 

これらを含むタイタニックの全てを知ることが出来る施設が、今回紹介したい場所「タイタニック・ベルファスト」です。

 

※コーヴについては タイタニックが最後に訪れた港町「コーヴ」のおすすめ観光スポット5選 で詳しく書きました。 

コーヴの町並み

タイタニックが最後に訪れた港町「コーヴ」のおすすめ観光スポット5選

2018年3月19日

 

※映画「タイタニック」の冒頭では、楽しそうにアイルランド伝統音楽を演奏するアイルランド移民たちが描かれています。

実際に映画内で演奏されていた伝統音楽、そしてアイルランドと音楽の深い繋がりについては アイルランドの音楽について、僕なりに語ってみたいと思います。 で詳しく書きました。

ザ・ビートルズ

アイルランドの音楽について、僕なりに語ってみたいと思います。

2017年10月23日

 

※アイルランド人が当時、貧しい生活を余儀なくされた理由やアイルランドを襲った「ジャガイモ飢饉」については アイルランドからアメリカへ~アイルランド移民の歴史について~ で詳しく書きました。

昔のニューヨーク

アイルランドからアメリカへ~アイルランド移民の歴史について~

2019年3月23日

 

 

 

タイタニック・ベルファスト

タイタニック・ベルファスト

Titanic Belfast

こちらの建物がタイタニック・ベルファストです。タイタニックが誕生した1912年から100年後の2012年に北アイルランドの新たな観光名所として造られました。

タイタニック・ベルファストの料金表

タイタニック博物館の料金表

館内を回る普通の観光以外にも、ガイド付きウォーキングツアーや、映画「タイタニック」にも登場する船内の大階段のレプリカを横目に食事を楽しむ「アフターヌーンティー」などのツアーもあります。

※詳しくは 公式サイト でご確認下さい。 

 

館内の様子

タイタニック・ベルファストの中

館内ではタイタニック造船前から物語が始まり、製造工程や構造、船に関わった人々、始めて航海に出た豪華客船が当時世界最悪の海難事故に遭遇し沈没した詳しい経緯、そして海底にある現在のタイタニックの姿など、順を追って本当に多くの写真や模型、映像などを見て知ることが出来ます。

タイタニック・ベルファストの中

3面に映し出される船内の映像

また、リアルな音響や設備は博物館というよりテーマパークと言った方がいいほどで、100年以上前の豪華客船をとても身近に感じる事が出来ます。

 

ベルファストの造船業

造船所の様子

ベルファストの造船業の歴史は長く、始まりは1600年代後半までさかのぼります。

最初の頃はまだまだ規模は小さかったですが、1700年代後半には大規模な造船所が造られ、「造船業」はベルファストの町にとって重要な産業へと発展していきます。

造船所の様子

そして、その発展に大きく貢献してきた造船会社が、イギリスの重工業メーカーである「ハーランド&ウルフ(Harland and Wolff)」で、ベルファストで造船業を始めて以来、数多くの船を造船しました。

ちなみにハーランド&ウルフは現在でもベルファストにあります。
ベルファストの造船所

ハーランド&ウルフ(H&W)

 

タイタニック造船の始まり

設計図を書く人々

タイタニックの設計図を書く人々

ある日、世界的に見ても大きな造船会社だった「ハーランド&ウルフ(Harland and Wolff)」の会長(ウィリアム・ピリー卿)が、イギリスの海運会社「ホワイト・スター・ライン(White Star Line)」社長(ジョセフ・ブルース・イズメイ)にある提案を持ちかけます。

それがタイタニックを含む大型客船3隻の造船です。

ホワイト・スター・ラインのポスター

ホワイト・スター・ラインのポスター (当時)

当時は大西洋を早く渡るスピード重視の船が多く造船されていましたが、ホワイト・スター・ラインはこの競争には加わらず、豪華な内装や充実した設備のある客船をメインとして扱っていました。

そういった理由もあり社長のジョセフは造船の提案を承諾。

そしてその3年後の1912年、当時では世界最大、そして世界でもっとも豪華な客船「タイタニック」が完成しました。

 

タイタニック最初の航海

タイタニックの航路図

タイタニックの航路

タイタニックは造船された北アイルランドの「ベルファスト」を出発し、タイタニックの母港であるイギリスの「サウサンプトン」フランスの「シェルブール」アイルランドの「コーヴ(前クイーンズタウン)」を寄り、北大西洋の海で沈没します。

1912年に完成した豪華客船は、それと同じ年にその生涯を終えました。

 

タイタニックの客室

タイタニックの一等船室

一等船室

まるでホテルのような部屋ですが、これはタイタニックの一等船室を再現したもの。6日間の宿泊料金は現在の価値にすると約900万円ほどになり、まさに富豪のために用意された部屋でした。

一等船室は救命ボードがある船の甲板までの距離が近く、各部屋には担当の客室乗務員がいたため、氷山に衝突後の誘導も比較的しっかり行われ、船に乗っていた一等客のおよそ61%が生還することが出来ました。

タイタニックの三等船室

三等船室

こちらは貧しい移民たちが泊まっていた三等船室で、宿泊料金は現在の価格で約3万3千円~9万円ほどです。写真の部屋が9万円台の部屋なのかは分かりませんが、タイタニックの三等船室は、当時の運航していた他の客船に比べると比較的快適だったようです。

しかし、三等客には立ち入り禁止区域が設けられ、デッキへと繋がるゲートは基本的に鍵が掛けられていました。また避難経路は一切決められておらず、緊急時にはすべて開かれるはずだったゲートも、事故当時は数カ所しか開いていませんでした。

そのため三等客の多くは救命ボードまで辿り着く事が出来ず、船に乗り込んだ三等客のうちの24%しか生還することが出来ませんでした。また事故当時、子どもは優先的に救助されてはいましたが、それでも船に乗っていた子どものうち50名(諸説あり)は亡くなり、そのうちの49名は三等船室の子どもたちでした。

 

救命ボード

タイタニックの救命ボード

救命ボード

タイタニックには救命ボードが大小合わせて20艇(約1200名分)積まれていましたが、当時船には、乗員、乗客合わせ2200名以上もの人間が乗っていました。

当時は、「定員分のボートを積まなければならない」といった明確な決まりがなかったため、タイタニックのみならず、当時運行していたほとんどの客船が、定員分に満たないボートの数しか船に積んでいませんでした。

また船員たちは救命ボードの訓練をほとんど受けていなかったため、事故当時は適切な対応が出来ず、65名を乗せられるはずのボートに、半分以下の人間しか乗せず出発させていた船員もいました。

 

沈没

タイタニック沈没の様子

「不沈の豪華客船」と謳われ世界中から注目を浴び、2200名以上の乗員、乗客を乗せ、華々しく出港したタイタニックは、初めての航海にして海に沈むことになります。

 

●氷山に衝突した主な原因

  • 1ヶ月遅れの出港だったので、氷山の数が増えていた。
  • 氷山の警告を何度か受けていたが航海を続行した。
  • 海の監視に双眼鏡が使用されていなかった。
  • 船員も氷山が周りにあるのには気付いていたが、客船を時間厳守で目的地に到着させるため減速はしなかった。

 

●多くの死者を出した原因

  • 救命ボードが足りなかった。
  • 船員たちによる救命ボードの訓練が不十分だった。
  • 氷山があるような冷たい海だったため、ボートに乗れなかった人間のほとんどは凍死してしまった。

 

まだまだたくさんの原因や新説(出港時に起きた船の火災により船体がもろくなっていた)などがありますが、さまざまな人的要因があったことは間違いありません。

 

タイタニックに関わった人々

タイタニック・ベルファストの中

タイタニック・ベルファストでは、タイタニックに関わった多くの人間が細かく紹介されています。その中でも特に印象深く、心に残った人物たちを紹介したいと思います。また、これらの人物は映画「タイタニック」でも描かれていて、映画内での発言や行動は、実際の彼らの人物像をうまく表現しています。

 

マーガレット・ブラウン

マーガレット・ブラウンの写真

Margaret Brown

マーガレットは、アメリカに移民として渡ってきたアイルランド人の両親のもとに生まれました。家庭環境は貧しかったため、お金持ちとの結婚を夢見ていた彼女でしたが、彼女が愛し選んだ相手は、お金持ちとは言えない男性(ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン)でした。

しかし、ジェイムズは努力家であり、鉱山工学の知識を持っていたことが後の仕事で活かされ、その後大きな富と地位を築きます。それによりマーガレットは瞬く間に富豪の仲間入りを果たしました。

そんな彼女を、アメリカの社交界で出会う富豪たちは「成金」などと忌み嫌ってはいましたが、実際の彼女は、タイタニック乗船前から女性の生活の改善や、その他様々な慈善活動を行うなど、尊敬されるべき立派な女性でした。

映画「タイタニック」では、上流階級の行事に慣れていないジャックに、息子のタキシードを貸してあげたり、食事の作法や会話の時にうまく相づちを入れてくれたりと、身分が全く違う彼に対し、親身になってサポートしてくれている姿が描かれています。

もちろん上記の行動は作り話ですが、もともとは平民出身で、富豪の仲間入りを果たしてからも慈善活動に力を入れていた彼女だからこそ描かれた役どころだと思います。

運命の日。彼女は単身アメリカに渡った夫の後を追い、フランスの港からタイタニックに一等船客として乗り込みます。氷山との衝突後、子どもと女性は優先的に救命ボードに乗せられたため、彼女は早い段階で沈没前の船から離れることが出来ました。

しかし、その後しばらくして、彼女は思いがけない行動に移ります。

彼女は同乗していた船員や一部の乗客の反対を押し切り、何百人が溺れているであろう沈没現場までボートを戻そうと提案したのです。彼女のリーダーシップは反対していた女性たちを勇気付け、共にボートを4~5キロ移動させ、現場の生存者を探しました。

残念ながらこの行為によって、生存者を発見することは出来ませんでしたが、溺れる者がボートに殺到し、こちらが沈没するかもしれないという状況下で、彼女が取った行動はとても勇気あるもので、後に英雄として称えられるキッカケとなりました。

 

トーマス・アンドリュース

トーマス・アンドリュース

引用元:「Wikipedia(トーマス・アンドリュース)」

アンドリュースは北アイルランドの小さな町「コンバ(Comber)」の名家に生まれ、当時のハーランド&ウルフ社の会長であったピリーの甥っ子にあたります。彼は16歳でハーランド&ウルフの見習いとして働き始め、船に関する様々な知識、技術を身につけていきます。

また彼は仕事熱心で誠実な人柄だったため、同僚や現場作業員からの信頼も厚く、もともと幹部候補で入社したこともあり、会社内での地位も順調に上がっていき、ホワイト・スター・ライン社が所有する数々の造船に携わりました。

映画「タイタニック」でも、その謙虚で真面目な性格が描かれています。

1907年、豪華客船「オリンピック」設計の監督となり、その2年後の1909年には、オリンピックの姉妹船であるタイタニックの設計も担当、タイタニックの造船前から完成までをすべて見届けます。

タイタニックは当時運航されていたほかの客船と比べても、安全対策にはかなり力を入れていたので、トーマス本人も「完璧な船」と周囲に語っていました。

いよいよ、タイタニック初の航海がやってきます。トーマスを含めるハーランド&ウルフの社員は、改善が必要な箇所を洗い出すため、ベルファストからタイタニックに乗り込みました。

1912年4月14日、船は氷山に衝突、それにより船の側面に亀裂が生じ浸水。ただ、船には防水壁で仕切られた16の区間があり、2区間浸水しても沈まない構造で、船首部(船の前側)には至って、4区画浸水しても沈まないよう設計されていました。

しかし、氷山はその数を上回る5~6区間に亀裂を作っていて、誰よりも船に詳しかったトーマスは、スミス船長と共に損傷箇所を確認したのち「1時間~1時間半でこの船は沈む」と判断します。

船長は、船員たちに救命ボードの用意をするよう命令、トーマスは、船内にいる乗客に救命胴衣を着用し救命ボードに乗るよう伝えて回ります。また、船のデッキからは浮き代わりに使えるよう椅子を海に投げ込みました。

トーマスは絶望的な状況の中、おびえる乗客を励ましたり、危機感のない乗客に対しては、救命胴衣の着用や避難を強く促したりと、必死に行動していました。

しかし、彼が最後に目撃されたのは、救命胴衣をテーブルの上に置き、一等船室の暖炉の上の絵を静かに見つめている姿で、その後彼が生きて帰ってくることはありませんでした。

生存者たちからは、トーマスは事故当時、乗員、乗客の安全を第一に考え尽力した英雄と言われています。

 

ジョセフ・ブルース・イズメイ

ジョセフ・ブルース・イズメイ

Joseph Bruce Ismay

すでに紹介したホワイト・スター・ラインの社長ですが、彼もまた、タイタニックに乗船した一人で、タイタニック沈没事故で生き残った約700人のうちの一人でもあります。

当時、生きて帰ってきた彼に対し「1500人を見殺しにした」「タイタニックと共に死ぬべきだった」など、世間からの批判は相当なものでしたが、事故当時、そしてその後に彼がとった行動は、そう言われざる得ないものでした。

タイタニックが氷山に衝突した際、彼は部屋で眠っていましたが、その衝突の振動で目を覚まします。起きたままの姿でスミス船長の元に行き、状況を確認すると、船長から「船が最悪の状況の中にある」ことを告げられます。

一刻を争う中、彼は救命ボードを下ろす船員たちの手伝いをしていましたが、余計なこと言って作業を急かすなどして、船員には怒鳴られ、現場では浮く存在になっていました。そんな状況の中、彼はその後の自分の運命を決める行動を取ります。

彼は救命ボードが人数分足りないことを十分承知の上で、ボートにあった空席に飛び乗ったのです。

もちろんその後彼は、助けにきた船によって救助され生還します。そして、事故後に行われた調査で彼は「この事故は全てスミス船長の責任であり、自分はただの乗客だった」と主張。

これにより彼に対する世間の批判はさらに増しましたが、船の最高責任者はあくまで船長で、彼が運航に対し支持をしたという証拠がなかったため、彼に罪が問われることはありませんでした。

しかし、この事故の影響で今まで積み上げてきた肩書きはすべて無くなることになり、その後はアイルランドのゴールウェイ州の自宅で隠れるように暮していたそうです。

 

沈没後のタイタニック

海底にあるタイタニックの写真

館内終盤に差し掛かると、まるで映画館のような場所が現れ、沈没後のタイタニックの貴重な映像を床にまで映し出される大きなスクリーンで見ることが出来ます。映像はとてもリアルで、タイタニックが実際に存在し、事故に遭い、この場所に沈んだんだな…と改めて実感出来た瞬間でした。

 

SSノマディック

SSノマディック

SS Nomadic

タイタニック・ベルファストの目の前には、当時使用されていたドックの中に、SSノマディックというフェリーが展示されていて、タイタニック・ベルファストのチケット代にはこのフェリー内の観覧も含まれています。

SSノマディック

戦時中のSSノマディック

SSノマディックは、タイタニックと同じくハーランド&ウルフが造船し、ホワイト・スター・ラインが運航していたフェリーで、フランス「シェルブール」の港からタイタニックまで乗客を運んでいたこともありました。

また、第一次、二次世界大戦中は兵士を戦場に送る、または祖国に帰すための連絡船、その後はパリで船上レストランとして使用されていました。現在展示されているのは、当時の姿を復元したものになります。

ホワイト・スター・ラインは消滅し、現在は存在しない会社です。SSノマディックは当時ホワイト・スター・ラインが所有していた船で唯一現在残されているものになります。

 

タイタニック・ドック&ポンプハウス

ベルファストのドック&ポンプハウス

Pump House

タイタニック・ベルファストから10分ほど歩いた場所に、タイタニックを収容していた当時世界最大を誇った乾式ドックと、そのドックに水を出し入れするために使われていたポンプ室が残されています。

現在ポンプ室の一部はカフェとして使用されていて、そのカフェのカウンター(レジ)でドック&ポンプハウスに入るチケットを購入することが出来ます。

ポンプ室では、ポンプの仕組や制御方法などが詳しく解説された映像が流れていて、実際に使われていた制御装置なども間近で見る事が出来ます。ポンプ室を抜ければ、タイタニックが収容されていた場所、そして、タイタニックが始めての航海へと出発した場所が現れます。

ベルファストのドック

Titanic’s Dock

この中にタイタニックがすっぽり入っていたことを考えれば、このドックがいかに大きいかが想像出来ると思います。ドックには観光用に階段が備え付けられているので、下に降りる事も可能です。

ドックの水門

ドックの水門

こちらは大きな大きなドックの水門で、この門の向こう側には海が広がっています。当時世界最大、そして世界で最も豪華な客船はこの門を抜け初の航海へと旅立ちました。

 

HMSキャロライン

HMSキャロライン

HMS Caroline

タイタニック・ドック&ポンプハウスの側には、第一次世界大戦中、イギリス海軍とドイツ海軍が戦った「ユトランド沖海戦」で使用され、現在唯一残されているイギリスの軍艦「HMSキャロライン」が展示されています。

船内も見学可能で、入場料金は大人11ポンドほど。僕は今回入りませんでしたが、船内では軍艦のエンジンルームや大砲のレプリカ、その他戦時中に関する貴重な資料を見ることができます。

 

映画「タイタニック」について

タイタニック造船中の写真

僕が、映画「タイタニック」を始めて見たのは中学生のころで、映画を見た感想としては、「ジャックとローズがいちゃつき、その後船で色々ハプニングが起きるパニック映画」ぐらいにしか感じませんでした。それは僕が若すぎたこと、そして、タイタニックに関する知識がなかったこと、また、その当時の歴史的背景を全く知らなかったことが大きく影響しています。

タイタニック・ベルファストを訪れた後、久しぶりに映画を見直しました。作り話と実話が混在する映画ではありますが、その当時の時代背景が細かく描かれていて、脇役の中には実在する人物が多く、博物館で知った事柄が描かれている部分はとてもリアルに感じました。

 

  • 設計士トーマスや英雄と称えられたマーガレットの人柄
  • 船員に怒鳴られ恐縮するイズメイ、そしてこっそり救命ボードに乗り込む姿
  • ゲートが閉ざされ三等船室から上の階に上がれず叫ぶ人々
  • 沈没寸前まで演奏を行った音楽隊
  • 船の電源確保のため、沈没寸前まで火を炊き続け、落ちるブレーカーを上げ続けた船員たち
  • 「紳士らしく最後を迎える」と言い救命胴衣着用を拒否、夜会服に着替え直し椅子に座っていた紳士
  • 「高齢とはいえ、男性の自分が女性、子供を置いてボートには乗れない」と言い、また彼の妻も「夫を置いていけない」と言い、救命ボード乗船を拒否、二人ベッドで寄り添って最後を迎えた老夫婦
  • 沈没寸前まで乗客に聖書を読み聞かしていた神父

 

…など他にもたくさん登場していますが、これらの人物たちは実際に存在していて、残念ながら亡くなった人物たちは生存者の証言をもとに描かれたものです。博物館を訪れる予定なら、行った後でも行く前でも、1度この映画を見ることを強くおすすめします。

 

最後に

2009年にタイタニック最後の生存者である女性(乗船当時は生後9週間)が亡くなり、タイタニック沈没事故の体験者はこの世にいなくなりました。

そんな中で、タイタニック・ベルファストという存在は、世界で起きた最悪の海難事故の一つを知り、学ぶことが出来る貴重な施設だと思います。

タイタニックと言えば映画の印象がとても強いため、映画が嫌いな人にとっては、タイタニック博物館など行く気が起こらないかもしれませんが、博物館自体は純粋にタイタニックとベルファストの歴史を深く理解出来る施設です。

映画に興味あるなしに関わらず、一度訪れてみることをおすすめします。

 

最後までありがとうございました。

それでは、また!!

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ABOUTこの記事をかいた人

高校を卒業してから、そのまま就職。12年間働いていたが、そんな自分の人生に疑問を覚え、30歳前にして何の計画もないまま会社を辞め、海外に行くことを決意。理想の人生を強烈にもがきながらも追い求めています。そんな僕が、このブログを通して海外の魅力、文化、役に立つ情報など発信したいと思います。