今回は北アイルランド第2の都市「ロンドンデリー」について書いていきたいと思います。
”ロンドンデリー”という名はこの町の正式名称ですが、これはイギリスによって付けられた名で、もともとは「デリー」という名前の町でした。
ただ、今でも”デリー”という呼び名が一般的なようで、ある日僕がデリー近くの町で「ロンドンデリーに行きたいんですけど…」と現地の方に尋ねたとき、その方は少し笑って「ロンドンデリーはイギリスが付けた名前で、みんなはそう呼ばない、デリーだよ」と答えました。
地図や道路標識ではロンドンデリーと表示されていたりするので少しややこしですが、基本的には”デリー”と呼ぶ方が(気分を害さないように…)間違いないと思います。
名前はさておき…
デリーの観光に関してはかなり盛り沢山で、特に町を囲む1.5㎞の城壁は必見。
そして、デリーは世界的にも注目を浴びた”北アイルランド紛争”で重要な拠点となっていた場所なので、その歴史に関する傷跡や痕跡が多く残る町でもあります。
※カトリック系住民とプロテスタント系住民の違い、北アイルランド紛争などなど、ロンドンデリーを観光するなら必ず知っておいた方が良い「北アイルランドの歴史」については 北アイルランド観光するなら絶対知っておきたい重要な歴史 で詳しく書きました。
目次
ピース・ブリッジ

The Peace Bridge
2011年に建設されたこの橋は、カトリック系住民が暮らす地区とプロテスタント系住民の地区を分けるように流れるフォイル川に架かっていて、「ピース・ブリッジ」という名前の通り、分かれて暮らす両者の関係を改善するために造られました。
写真に写っているのが町の中心地で、その中心地のさらに先がカトリック系住民が多く暮らす地域、反対側(写真に写っていない方)がプロテスタント系住民が多く住む地域になります。
実際僕もここに来るまで、両者の地域がこんなにもキレイに分かれているとは思いませんでした。
城壁

デリー中心地の地図
僕のお気に入りの場所の1つに、町の一番賑やかな中心地を囲むように建てられている全長1.5㎞の城壁があります。
城壁の上は歩いてグルッと一周することが出来るため、観光客や地元の方の散歩道として使われていて、所々に今いる場所や歴史に関する情報が書かれたパネルが設置されています。

写真右側が城壁内

城壁の上から見る町の景色も最高です!!(見えている町は外側)
ただこの城壁も、カトリック系住民側からすると少し複雑なものになります。
この城壁は17世紀初め、イギリスからの入植者(プロテスタント)がロンドン市の資金を使い築き上げたもので、アイルランド人の攻撃から入植者を守るために建設されました。
実際に城壁は1688~1689年に起きたデリー包囲戦で、カトリック軍の侵入から城壁内のプロテスタント住民を105日間守り続けた歴史があり、プロテスタント住民からすればこの城壁は自分達の領土を守った誇らしい遺産になります。
デリー包囲戦の記念館

Apprentice Boy’s Memorial Hall
こちらは上記で紹介したデリー包囲戦についての資料や当時の品が見られる記念館になります。包囲戦は105日間もの間行われていましたが、その期間の中でも特に有名なものに13人の少年の話しがあります。

彼らはカトリック軍がデリーに攻め込んできたことにいち早く気付き、住民達を城壁内に避難させ門に鍵をかけました。これが105日間にもおよぶ包囲戦の始まりになります。
この少年たちの功績を含め、デリー市内ではプロテスタントの勝利を祝うイベントが毎年行われますが、カトリック系住民からすると、これもまた複雑なイベントかも知れません。
ギルドホール

The Guildhall
1887年に建てられた赤い色が特徴的な建物。
入場は無料で、中にはデリーの歴史に関する写真や資料がある展示室、カフェ、そしてパイプオルガンとたくさんのステンドグラスで飾られた大きなホールがあります。
聖コラムズ大聖堂

Saint Columb’s Cathedral
1633年に建てられた町の中心地にある大聖堂で、宗教改革以降始めて建てられたプロテスタント教会として有名です。
ここで言う”宗教改革”とは、イギリスが信仰していた英国国教会(プロテスタント)をアイルランドに広めるため行った改革のことを指します。
カトリック教徒が大半を占めていたアイルランドにとっては、「信仰するものとは違う宗派の教会を自分達の国に建てられた」ということなので、あんまり嬉しくない第一号…かもしれないですね。
長老教会

First Derry Presbyterian Church
この場所に最初の教会が建てられたのは1690年で、1780年に今の教会へと建て替えられました。
この教会はロンドンデリーで最初、また唯一の長老教会になります。
※長老教会とはプロテスタントの一派になります。
タワーミュージアム

tower museum
デリーの歴史についての豊富な資料、映像が見られる博物館。デリーについてより深く知りたい人にはとてもおすすめ出来る場所です。
ヘリテージタワー

Heritage Tower Museum
第一次、第二次世界大戦の資料が展示されている小さな博物館です。この建物はもともとデリーにいくつかあった刑務所のうちの1つとして使用されていました。
聖ユージーン大聖堂

St Eugene’s Cathedral
こちらはカトリック系住民が暮らす地域にあるカトリック系の大聖堂で、1903年にダブリン生まれでアイルランド中に多数の教会を建てた有名彫刻家ジェイムズ・ジョセフ・マッカーシーによって建てられました。
戦争記念碑

Diamond War Memorial
町の中心地の広場にあるこの記念碑は、第一次、第二次世界大戦で亡くなった兵士を追悼する意味で、1927年に建てられました。
プロテスタント系住民の地区

ピース・ブリッジを渡ってプロテスタント系住民が多く暮らす地域に入れば、イギリス国旗、イギリスのカラーがやたらと目に入ります。
また、この地域でも多くの壁画を見る事が出来ますが、それはカトリック系住民の地域とはまた違ったものです。

IRAによって殺害された北アイルランドのイギリス在留を主張する過激派組織(アルスター防衛協会)のメンバー

「British」の文字やカトリック系の人々が嫌う「LONDONDERRY」といった町の名前、またイギリス残留を主張する過激派組織のメンバーなど、カトリックの地区ではまず見られないものです。
こういうものを見ていると紛争は確かに終っていますが、住民の心の中では割り切れていないものがまだまだあるように感じます。
Free Derry(カトリック系住民が多く暮らす地域)

このモニュメントがあるボグサイド地区は、紛争当時、貧しいカトリック系住民が多く暮らしていた地域になり、彼らは1969~1972年にかけて警察やイギリス軍の侵入を防ぐためこの場所にバリケードを築いていました。
その入り口付近の建物の側面に書かれたのがこの「YOU ARE NOW ENTERING FREE DERRY」(あなたは今自由なデリーに入っている)という文字で、プロテスタント系住民や警察、イギリスからの支配を受けないカトリック系住民だけの”解放区”を表しています。
また、このモニュメントの周りには強いメッセージを込めて描かれた壁画がたくさんあり、現在ではたくさんの観光客が訪れる観光スポットとなっています。





上記に載せたものは、この地区にある壁画のほんの一部です。
プロテスタントの地域を含め、デリーにはホントにまだまだたくさんの壁画がありました。
フリーデリー博物館

こちらはFREE DERRYのモニュメントから歩いて3分の場所にある博物館で、イギリス軍によって14人の非武装市民が射殺された「血の日曜日事件」を中心に、北アイルランド紛争に関する資料が多く展示されています。


血の日曜日事件とは
1972年1月30日、逮捕令状なしの身柄拘束と裁判なしの拘留に対する抗議運動に約1万5千人のカトリック系住民が参加していました。
デリーでは日頃からこういったデモは行われていて、特にこの日が特別な日ではありませんでした。
このデモにカトリック系の過激派組織「IRA」は参加しておらず、女性や子供たちが多く参加する穏やかな抗議運動でしたが、中には(特に若者たち)石や瓶を投げる者もいて、それに対してイギリス軍はゴム弾、催涙ガスなどで応酬していました。
こういった行為もデリーでは日常的に行われていたことで、抗議運動は夕方ごろには収まり始めていました。
しかし、いつもと違っていたのは、騒ぎの中心から少し離れた場所でイギリス軍が実弾を使い市民に対して銃撃を開始し始めたことでした。
イギリス軍は30分の間に逃げ惑う14名(13名は即死、1名は4ヶ月半後に死亡)の非武装市民を射殺、15名を負傷させました。
この事件によりデリー市民はイギリスに対して猛抗議をしましたが、イギリス側は「彼らは銃や爆弾で武装した過激派だった」と主張。
しかし、実際にはこのデモ中に撃たれたイギリス兵は1人もおらず、被弾した車も一台もありませんでした。
3ヶ月後に行われた裁判でも、イギリス政府の意向のまま、この事件におけるイギリス軍の行動にはなんら非は認められないと判決が下されました。
もちろんカトリック住民にとっては納得出来ない判決内容で、この事件をキッカケに紛争はさらに激化、その後の短期間で紛争による死者が倍以上に膨れ上がりました。
事件から30年近く経った2010年6月15日、両者の間で長く引きずってきたこの事件に結論が下されます。
その年のイギリス首相(キャメロン首相)は、この「血の日曜日事件」について、「イギリス軍が行った行動は正当化できない、被害者に武器を持った者は1人もおらず、イギリス兵は警告なしに発砲した」と発表。
イギリス政府として遺族や被害者に対し正式に謝罪をしました。
フリーデリー博物館内では、無線の音や声が響いていて、紛争時の臨場感や緊迫感、恐怖感を感じました。
また、当時被害者が着ていた衣服も多数展示されていて、その服に残る銃弾痕を見れば誰もが何か感じる事が出来る思います。
また、日本語セルフガイドもあるので、誰がどこでどんな状況で被害を受けたのか、事件の詳細がよく分かると思います。
デリーに訪れた際にはぜひ寄ってもらいたい場所ですが、正直とてもショッキングな場所で、少し暗い気持ちになると思うので、この場所は観光の最後に立ち寄ることをおすすめします。
血の日曜日事件追悼の墓

FREE DERRYのモニュメント近くには、血の日曜日事件で命を落とした14名を追悼するお墓が建てられています。墓には彼らの名前と年齢が刻まれていて、真新しい花が添えられていました。
その他のモニュメント
FREE DERRYのモニュメントがある地域にはその他、紛争に関わる多くのモニュメントが建てられています。


最後に

2つの異なった住民が混在するデリーの観光は、今までのアイルランド観光とはまた違ったものでした。
例えば一つの建物にしても、プロテスタント側にとっては誇れる場所、でもカトリック側にとってはあまりいい気分になれない場所だったり、このデリーという町の中にそういった場所がいくつもあり、それがとても興味深く感じました。
「昔、カトリック系住民に対する差別は本当にひどかった」と聞きましたが、現在では北アイルランドに住む住民は皆平等で、宗派の違いで争い事が起こることはほぼないとのこと。
ただ今でも自分たちの地域には自分たちの国旗を掲げ存在を示す、争いはないにせよ、お互いが混ざりあって暮らすにはまだまだ時間が必要なのか、それとも今の状態が両者にとってベストなのか…どちらにしても部外者の僕が意見を言えることではありません。
色々書きましたが、デリー観光は色んな意味で楽しめること間違いなし、とてもおすすめなので、ぜひ一度行ってみて下さい!!
※イギリスから多くのプロテスタント系住民がアイルランドに住み着いた理由や、その歴史については アイルランドからアメリカへ~アイルランド移民の歴史について~ で詳しく書きました。
最後までありがとうございました。
それでは、また!!
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